迷惑をかけるなと傷兵さん


傷兵 っていう言葉、知っている?

傷兵って戦場で負傷した兵隊のこと。
でもって、転じて役立たずの意味……なんだそう。

今、仕事で静岡にある牧ノ原やまばと学園というところの
50周年記念誌の編纂をしているのだけれど、過去の機関紙に
傷兵とは役立たずのこと、という話が出てくる。

子どもが、バカなことをしたり、箸にも棒にもかからなかったりすると、
昔は「お前は傷兵さんだ」って言われたんだそうな。

この文章を読んで私が思い出したのは、
ごく小さい頃に新宿の西口で何度かみた、負傷兵。
脚がなく、地面にお辞儀をする体制で手をつき、
お金を入れる器を脇において、一日頭を下げていた人達。

脚がない人も手がない人もいて、あの人達はどうしたの?と母に聞いた時、
戦争で怪我をして、働けなくなったから、ああやってお金をくださいって
頭をさげているのよ。大変ね、と母は言ったように思う。
手や脚がない人は、子どもの私にとって恐怖だった。そして、戦争にいって
手や脚がなくなっちゃったら、ああやって、ずっとお辞儀をしていなくちゃ
いけなくなるんだ、というのは、ある意味私に戦争の怖さの一つを教えてくれた。

でも、考えて見ると、これ、とても失礼な話でしょう?
赤紙で招集して、戦場に送り出して、行きたくなかったかも知れない人
前線に送りだして、怪我したら、お前は役立たずだ、なんて。

裏には、傷兵になって、今後働くこともできず、ってことは
税金を納めて国に貢献することもできず、
もちろん、再度前線に向かうこともできない
役立たずになるくらいなら、いっそ「お国のために死んでこい」っていう思想が
隠れている。

今使えない奴は、生きていてもしょうがない。
働いて税金を納めて国に貢献するか
前線で肉弾と散って敵を玉砕するか
きっと明治以降の日本が平民に求めて来たことはそんな程度で
それができた段階では、華々しく送り出すけど、
その裏では、障碍者になって国に負担をかけるくらいなら死ね
生きている価値はない
っていう、とんでもない思想が、続いてきているんだと思う。

そして、国の役に立たない(税金も納められず、前線で肉弾となることもできない)奴は
国にとって迷惑な存在であり、恐らくはその延長で、家族にとっても迷惑な存在だった。

だから、障がいのある人達は座敷牢に入れられるようなひどい扱いが、
50年ほど前まで続いていた。

そしてね、それと、母達の世代が言われてきた「人に迷惑をかけるな」はすごくつながっているのだと思う。
迷惑をかけるな、っていうのは、ひっくり返してみると、役にたて、ということで。
役に立たない存在になってまで生きる価値はない、という考え方。

そして、この迷惑をかけるなっていう言葉を発するのは、
多くの場合、迷惑をかけない立場にいる人達だ。
具体的にいうと、この言葉を発するのは壮年期、ではないだろうか。

赤ん坊が親に迷惑をかけるな、なんていうことはないだろうし、
親が中学生に、人に迷惑をかけないように、と諭すことはあっても
中学生が「オレに迷惑かけるなよ」と親に言うことはない。
介護が必要な人達が「あたしに迷惑かけないでよ」っていうことも
あまりないんではないかなぁ。

そう思うと、この人に迷惑をかけてはいけないっていう発想は、
壮年期の、忙しい時期の人達の、すごく自分勝手なものいいだよなぁ、と
思えて仕方がない。
それも、傷兵になっていない、オレはバリバリいけると信じている強者の言葉。

でも。
子ども達は親に目一杯迷惑をかけて、育つ。
壮年期の親は、「人に迷惑をかけるな」と言い続けて育てる。
それは、ある意味では、自立した社会人になれ、というメッセージ。
でも、一方で、傷兵になるな。敗者になるな、という戒めでもあったはずだ。

しかし、人は老いればまた、必ず「迷惑をかける存在」になる。
それを日本社会はどう捉えてきたか。

一つの答えは姥捨て山だろうか。
やっぱり、役にたたない迷惑な存在は切り捨てられる。

そうやって考えると、迷惑をかけるなっていうのは、
恐らくは、子育てにもほとんど関わらず、
(企業)戦士として前線で元気に働いてきた
おじさん達の戯言なんじゃないかと思ったりする。

迷惑をかけるななんて、無理なんだよ。

「人に」の「人」が昔そうだったように、他人を意味するのだとしたら
家族は結局迷惑を拾うのが前提でなければ。
諸事情あってどうしても引き受けられない迷惑もあるかもしれないけれど
人に迷惑をかけるなって涼しい顔をしていたら、
人生はまわらないんだよ。

ということを、立身出世と企業戦士という発想に毒されたおじさん達に
声を大にして伝えたい




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