kaerou 帰る所のないおばさんは、どこへ帰るの?

 

友人がSNSで激賛していた藤井風のkaerou
23才の、言ってみれば息子の年齢の男の子の書いたこの詩が
50代にもなって、人生いろいろ通過してから聞いても、
何でこんなに刺さるんだろうなぁと、ここ数日考え続けていて。

ちなみにどんな詩かというと

あなたは夕日に溶けて
わたしは夜明に消えて
もう二度と 交わらないのなら
それが運命だね

あなたは灯ともして
わたしは光もとめて
怖くはない 失うものなどない
最初から何も持ってない

それじゃ それじゃ またね
少年の瞳は汚れ
5時の鐘は鳴り響けど もう聞こえない
それじゃ それじゃ まるで
全部 終わったみたいだね
大間違い 先は長い 忘れないから

ああ 全て忘れて帰ろう
ああ 全て流して帰ろう
あの傷は疼けど この渇き癒えねど
もうどうでもいいの 吹き飛ばそう
さわやかな風と帰ろう
やさしく降る雨と帰ろう
憎みあいの果てに何が生まれるの
わたし、わたしが先に 忘れよう

あなたは弱音を吐いて
わたしは未練こぼして
最後くらい 神様でいさせて
だって これじゃ人間だ

わたしのいない世界を
上から眺めていても
何一つ 変わらず回るから
少し背中が軽くなった

それじゃ それじゃ またね
国道沿い前で別れ
続く町の喧騒 後目に一人行く
ください ください ばっかで
何も あげられなかったね
生きてきた 意味なんか 分からないまま

ああ 全て与えて帰ろう
ああ 何も持たずに帰ろう
与えられるものこそ 与えられたもの
ありがとう、って胸をはろう
待ってるからさ、もう帰ろう
幸せ絶えぬ場所、帰ろう
去り際の時に 何が持っていけるの
一つ一つ 荷物 手放そう
憎み合いの果てに何が生まれるの
わたし、わたしが先に 忘れよう

あぁ今日からどう生きてこう
出典はこちら

友人は
ああ 全て忘れて帰ろう
ああ 全て流して帰ろう
あの傷は疼けど この渇き癒えねど
もうどうでもいいの 吹き飛ばそう
さわやかな風と帰ろう
やさしく降る雨と帰ろう
憎みあいの果てに何が生まれるの
わたし、わたしが先に 忘れよう

というサビの部分の
>憎みあいの果てに何が生まれるの
わたし、わたしが先に 忘れよう
が特に刺さると言っていた。

結婚生活など、男女の関係が長くなり、
憎み合いの果ての怒りが、悪露のように溜まっていくと
わたし、わたしが先に 忘れよう
がすごく難しい。
関係を清算したり距離を置いたりすると、
それと共に、いろいろなものが消えていくように感じるけれど
傷つけられた感情や、悲しみや、怒りは、
最後の最後までお腹にたまる。

だけど、
>憎みあいの果てに何が生まれるの
とどこかで、思い直して
>わたし、わたしが先に 忘れよう
と思えないと、この先一生怒りを抱えたまま生きなくちゃならない。
実は、憎み合うことそのものよりも、
憎み合いを越えた後も、憎しみを抱えながらいきていくこと
の方が遙かにしんどいんだ
っていうのは、さすがにこの年になると、気がつく。
でも、なかなか、
>わたし、わたしが先に 忘れよう
っていう当たり前の結論にたどり着けないのは、
抱えている闇があまりにも大きくて深いからなのだろうけれど。

でも、この曲を聴いていると
やさしいメロディラインと共に

あの傷は疼けど この渇き癒えねど
もうどうでもいいの 吹き飛ばそう

>わたし、わたしが先に 忘れよう

と言われることで、
そうだなぁ、自分から手放さないと、ずっとこのままだよ
っていうことに、気づかせてもらえるから、刺さるんだろうなぁ、と。

そのためには、
>あの傷は疼けど この渇き癒えねど
>もうどうでもいいの 吹き飛ばそう
と思えることが第一歩。
でも、それ以上に強烈に認識しないといけないのは
サビの直前に出てくる

それじゃ それじゃ まるで
全部 終わったみたいだね
大間違い 先は長い 忘れないから
なんだと思う。

大間違い 先は長い 忘れないから
っていった直後に、サビの
ああ 全て忘れて帰ろう
ああ 全て流して帰ろう
と始まるあたり、すごく矛盾した話の展開になっているのだけれど、
実際のところ、全て忘れてといったところで、
ここまでのたうちまわりながら生きてきたことが
帳消しになるわけでもあるまいし。
子どもでもいれば、「忘れよう〜」と言ったところで
忘れられる訳もでもないし。いなくなるわけでもないし。
いなくなってほしいわけでもないし。

だから、
全て終わった みたいな気になっちゃうのは

大間違い 先は長い
ってことになるわけで……。

この、実際にはあり得ない「過去の清算」を
憎しみと怒りだけを手放す形で実現するのが
「私、私から忘れよう」
っていうことなんだろうなぁ。

と、そうやって考えていくと、ハタとこの歌の大きな疑問に行き着く。
憎み合う関係を清算して、
怒りを手放して、
私が先に忘れて

私は
どこへ帰るの?

この詩については、いくつか、解説みたいなものを書いている人がいて。
その一つがOhesoさんのこれだったりするのだけれど。

彼の前半の解釈はすごく納得するけれど、
最後の帰るところについては、家族……的なぼんやりした終わり方になっている。
う〜ん。
でも、これメインテーマだからね。帰る。どこに帰るか、見えないと
私的にはすっきりしない。

どこへ帰るんだ、怒りを手放した私は?

娘に「どこに帰ると思う?」と聞いたら、「自分ち? 実家?」という返事。
う〜ん。まぁねぇ。でも、それは実家のある、若者の答えだなぁ、と、
ほぼ、実家が帰るところではなくなっている、おばさんは考える。

風君も、そんなイメージで書いたのかもしれないなぁ。
残念ながら、実家から離れてからの方が長くなると、
もはや実家は帰るところではない。
介護に戻ることはあっても。

でも、じゃぁ、どこに帰ればいいんだろうか。
憎しみを手放したおばさんの私は。

さわやかな風と帰 る所
やさしく降る雨と帰 る所
待ってるからさ、もう帰ろう  と言える所
幸せ絶えぬ場所

一体どこ????

ぼんやりそんなこと考えながら、この曲を友人が紹介するきっかけに
なった別の友人の投稿読み返したら、答えがあった。

それは、
人を愛せた自分
好きな人と一緒に笑えた自分
生まれてきた子どもを初めて抱っこして涙した自分
柔らかい心を持っていた自分。
私自身についていえば、単純に人を信用できた自分、かもしれない。

もう、傷つけられまいと防御することも
まただまされるかもと人を疑うことも
全て忘れて
全て流して
>あの傷は疼けど この渇き癒えねど
>もうどうでもいいの 吹き飛ばそう

そして、素の自分に帰ればいいんだなぁ。

待ってるからさ、
って自分に笑えるおおらかな自分がいれば、
まだ先が多少長くても、なんとかなる。

そんな気持ちで、kaerou再生中。



















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