北山Webinar 公開講座 「見るなの禁止」について

今日は、オンラインのこんな講座を聴講しました。
北山修先生って、フォーククルセーダーズというバンドをやっていた
「帰ってきた酔っ払い」を作った人。「あの素晴らしい愛をもう一度」とか、「さすらい人の子守歌」とか。

今は高名な精神分析医でいらっしゃる。
その北山先生と、大学の後輩の荻本先生がジョイントでなさった本日の講座。
罪悪感と穢れを巡る日本的思考の考察……とでもいうような2時間。

「見るなの禁止」というのは、荻本さんの説明だと、
北山先生の考えかたの根幹の一つらしい。
美が醜に変わる瞬間
生が死に転ずる瞬間
背反する存在を同時に抱える時、人はそれを他者に見せまいとする。
なみたまいそ 見るなの禁止、だ、と北山先生は言う。

一方で、その混沌とした背反するものの混在を
人は恐怖と共にのぞきみせずにはいらんれない性質を持っている。
でも、正面切って見のではなく、ちょっとのぞき見をして、
それを目にした瞬間に逃げることで、混沌との対峙を避ける。

たとえば
鶴の恩返しのつうは、実は出産の姿だったのではという。
生が生じるときの醜く汚い現場をよひょうはのぞき見る。
怖くて正面からは取り組めない。脇からのぞいて、醜いものに仰天する。

見られたつうは、醜い姿を見られたことを恥じて、
ふわりと黙って宙を舞い消えて行ってしまう。
穢れを抱えて、穢れを恥じて、空に消えていく。
一方で、汚れを目にしたよひょうは「我に恥見せず」の相手の姿を評価し、
みそぎをして穢れを払う。


恥をかいたら潔く去らねばならない
という感覚が日本人には共有されているのではないか
と北山先生は見る。

生きて虜囚の辱めを受けず
あっさり消えることを理想化している
とも。

そして、異種交雑、動物としてのパートナーは絶対に受け入れられない、という。

私は、その穢れの先にいるのが女だというのがひっかかった。
穢れて、恥を見られたら、その場から葬り去られるのは女。
異種交雑の異種は十中八九女。
女は社会の脇で、穢れたものとして、男の社会を支えるんだなぁ、と。
男が陽なら女が陰。これは、形質、体質上も言われることだけれど、
社会通念的にもそうなんだなぁ……とそんなことを考えながら話を聞く。

昔話や民話というのはある意味で、教えや社会規範の反映でもあるわけで、そいういう意味では、異種排斥(恥ずかしい思いをして消えるのは異種であり、男と女であれば、社会的にはそれを女性が押しつけられるというのか引き受けさせられる)という通念の醸成のように私には見えた。

北山先生は、神話以前の社会は、女性が中心の社会だったのではないか、と言う。
女性優位の社会であったのは、聖書以前のユダヤ世界もそうだったのかもしれない。
ユダヤの色をひきずっているカトリックでは聖母信仰強い。

でも、確かに北山先生のおっしゃるように、女性が優位であると、

出産という特殊事情があるかぎり、いつ崩れるかわからない危うさを
内包した社会体制になりかねない。
それを男性側に転じさせるという動きは
恐らく、世界中で同じ時期に起きたのではなかろうか? いや、これは飽くまでも推測だけれど。
聖書なんて、本当に、男性が優位の社会を作るための教科書みたいだと思うことはしばしば。
でも、今日話を聞いていて思ったのは、聖書は男性中心社会を目指していて、
その意味において、明治以降の家父長制度的な社会に似ていなくはないのだけれど、
その中心にあるものが父性ではなくて父性愛だっていうところが、大きく違うのかも。

そして、家父長制の極まった形が日本軍。
荻本さんは、北山先生の著書から
ゴーラーのという人の、第二次大戦中の日本軍のメンタリティーの分析を引用。
曰く
過度に徹底した清潔さに対するトレーニングは無意識の攻撃性を育て得る
そして、
男児が家庭において甘やかされかされ母親が家庭において奴隷のように働かれている
>>日本人は強い攻撃的な願望が抑圧されていて、不浄なものに対して否認する・打ち消す儀式に執着し、罪の意識をもたない

穢れから離れ、ハレの場にいることをよしとする、潔癖な存在を体現しようとしたのが
帝国主義的な家父長的な男性のメンタリティだったんだなぁと、説明を聞きながら思う。

そんなことを、あれこれ思い巡らせながら、お話を聞く、とても刺激的な2時間だった。






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