罪悪感を巡って

#北山Webinar でもう一つ興味深かったのが、罪悪感の話でした。
荻本さんは、国際的な学術グループのメンバーとして、アジア諸国の研究者達と
日本人の罪悪感について研究中だといいます。

こと、戦争関連に関しては、「何回謝ればいいんだ」といった話や
従軍慰安婦問題への国の取り組みなどから、日本人は罪悪感を感じていないんじゃないか
っていう話が出たりするわけですが。
そうした研究の一環として荻本さんが紹介してくださったのが、
北山先生が書かれた本に出てくる、
第二次大戦中に日本研究を行ったGeoffrey Gorer。

Gorer
どうして同一の文化がしばしば、同じ人が優雅さと静寂、詩情に満ち、巧妙で高度に儀式化した象徴的な茶道をたしなみ、他方では、南京略奪のような、ほとんど信じられないような残酷さと欲望と破壊とをほしいままに することができたのだろうか?

私たちの知っているなかで、もっとも洗練された絵画芸術を発達させながら、 しかも、そのもっとも高名な画家の作品の大部分が春画であって、ヨーロッパやアメリカで は絶対みられないようなものであるなどということが、どうして可能なのか?

と、両極が日常的に共存する日本人のあり方に疑問を投げかけています。
でも、これこそが、北山先生や荻本さんのいう鵺的日本人のあり方なのでしょう。
洗練された芸術性と春画の猥雑さが混在するのが日本人。
いや、本来、人間はそういうものなのかもしれません。
が。
そういうものだからこそ、その本質をわかっているからこそ、
そこから離れて自らを律しようとするのが宗教だったり、○○道だったり
するのでしょう。
そこには、善悪の絶対の境界線があるわけですが。
そして、恐らくは、自分の中の鵺を認めまい、滅却しようとするのが
宗教の修行だったりするのかなぁと思うのですが。
日本人の場合、きっと鵺であることを肯定しちゃっているから
自分の中でのそういう意味での葛藤は比較的起こりにくいのかもしれないなぁ
と思ったりして。

で、罪悪感ですが。
ちなみに、英語で他国の学者さん達と話すときはなんていう言葉を使っているんですか
と荻本さんに聞いてみました。
guiltという答えが返ってきました。

>>日本人は強い攻撃的な願望が抑圧されていて、不浄なものに対して否認する・打ち消す儀式に執着し、罪の意識をもたない
というのがGorerの指摘とのこと。
罪の意識がguiltだとすると、日本語の罪悪感はそれとはずれる……というのが
私個人の感じるところです。

英語では罪にguiltとsinがありますが、guiltはsinの帰結だという考え方があります。
つまり、絶対的なsinがあって、それを犯したことへの明らかな自覚がguilt。
I have sinnedという自覚がguiltといえばいいでしょうか。
でも、もともと鵺的で、聖も邪も混在するのが人だ、自分だという受け入れ方をして
いる人は、sinnedという意識が、絶対的な善悪の価値観の元に育った人とは
大きくずれることは想像に難くありません。
同じguiltという言葉への自覚や認識が大きくずれる。
その中で、同じ言葉を、相手も自分と同じ解釈に立って使っていると考えて
話をすすめることの危うさみたいなものを、感じます。

ちなみに、今回取り上げられたのは、罪の意識ではなくて「罪悪感」。
最後に感がついているということは、デジタル大辞泉によれば
外部の者に触れた時の心の動き。いわゆる感情です。
つまり、「悪かったな」とか「傷つけちゃったんじゃないかな、申し訳ないな」
とかいった相手の気持ちや立場を慮って、相手に申し訳なく思うという感覚。
これは自分の罪を意識し、認め、内省した時に生じるguiltとは根本的に違うの
ではないか、と思います。飽くまでも、推測ではありますが。

そういう意味で言うと、西洋で、あるいは、イスラム世界で言われる
罪(それを決定するのは神)を犯したという自覚からくるguiltではない
罪悪感という感覚はあっても、guiltを持つのは、Gorerの指摘するように
日本人には難しいんではないでしょうか。
なぜなら、そもそもの絶対の罪というものがあるということへの
認識と理解が欠落しているから。

なんていうことを、つらつらと考える機会をいただいた今回のWebnar。
機会があったらぜひまた参加させてください。@北山先生、荻本さん

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