ケの場とお片付け

ハレ志向。
ハレがよく、ケはダメ。
ケにフタをしよう!
的な発想が、今の日本には蔓延している。
インスタとかSNSのハレ志向は、非常に明確。
そして、例えば
ホテルライクな部屋、生活感のない部屋への極端な傾倒って言うのも
ある意味、ハレ志向。
そういう意味では、断捨離は、不潔恐怖、ハレ志向の最前列にあるかもしれない。

ここで、一つ、考えたいのは、
戦後の家の構造。
家といっても家父長制の家ではなくて、住居です。

戦前の家って、
玄関と勝手口があった。
表玄関と通用口っていう発想も同じ。
茶の間はあったけど、玄関の脇には客間があり、
お客さんを茶の間に入れることはない。
ご不浄も外。手を洗うならお手拭きで。
茶の間からお勝手に外の人が入ることは許されない。
ご近所さんがやってきておしゃべりに来ても、
大体お縁側で話す。
そこが、ハレの場とケの場の緩衝地帯。
ケの場に入ることはまずない。
多分ね、ハレの場が混沌としていることは、許されなかった。
表は掃き清められ、水が打たれ、お客様のために整える。
でも、ケの場は混沌。混沌でOKだったはずだ。

ところが、戦後、茶の間というケの場が姿を消した。
代わりに出現したのが、リビングというカタカナのおしゃれな空間。
でも、これは、雑誌などを見ていてもわかるけど、
人を招じ入れることを前提とした設定になっている。
つまり。
戦後の家には、ケを貯める場所がなくなっちゃったのだ。
そして、ハレの場であれば、リビングは当然整然としていることを求められる。
外への顔なのだから。

でもね、生活としては、これはつらい。
だって、息を抜くところがなくなっちゃったわけだから。
常にハレ生活。
常にハレの家。
ホテルライクなハレに徹するライフスタイル。
ケの徹底した排除。
それは、つらい生活だよね。

結果どうなったかというと。
まわりの外国人の多くが指摘するように、
日本人は人を家に呼ばなくなった。
本当に親しい人は別だけれど。
ケに近いハレの空間に入れてもいいやと思える人は限られているのだ。
特に、外国人という、ケには入れたくない異質な人達は、
絶対呼ばれないことになっちゃう。
っていうのは、うがちすぎた見方でしょうか?
でも、あながちはずれていないと思うのだけれど。
家におけるケの喪失や不潔恐怖、お互い様感の喪失って
実はつながっているのでは、と個人的には思っています。

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