男はハレで女は穢

昨日の北山講義についての考察の続き

北山先生は、鵺としての母親という話をしていた。
鵺=多面体=様々な顔を併せ持つ存在
でも、それは、昨日も出てきていた
死と生、美と醜といった背反する二面性(あるいは多面性)を
内包する混沌とした存在だ。
整のった場にいる与平から見ると、それは、
見るなと言われてものぞきたい、不気味だけれど
すごく魅力的な存在だったんだろう。

彼はそれを「沼」とも言っている。
すべてを抱き込み、善も悪も抱え込んだ、どろりと濁った存在。
それって、ある意味「お袋」という認識にも通じるのかもしれない。
お袋の袋は子宮との関連がつよそうだけど、
ある意味、何を放り込んでも包み込んで、機能する存在
鵺的存在を象徴するような言葉でもある。

魅力的だけれど、はまってしまったら出られない
文字通り泥沼的な存在は、
ハレにはなりようがない。
ケの象徴としての鵺は、穢れた存在としての女を象徴しているわけだなぁ。
出産という生命を生み出す行為。
でも、それは血まみれの穢れの行為でもあり、
死と隣り合わせの、闇に片足を突っ込んだ行為でもある。
それは、ハレの場にいるべき男は見ちゃいけないものだったのかもね。
だけど、のぞきみたいわけだよね、自分がどんなふうにして産み落とされたか。

で。
この穢れをのぞいちゃった場合に、
ハレの側に戻った、大丈夫だ、自分は泥沼をのぞき見たけれど
そこにははまっていないぞ、
という泥落としの行為が禊なわけだ。

禊って、ケをハレに戻す行為 。
昨日北山先生は、不潔恐怖という言葉を何度か使っていたけれど、
ケを忌み嫌い、清潔な場にいたいというのは、
ある意味、極端なハレ志向だと言える。
それ、日本の男性のメンタリティーだと思うのは
偏見でしょうか?

男はハレで女はケ。
日本は、それを地で行こうとしてきた。
でも、それではまわらない。
ハレばっかりだと疲れちゃう。
ケがあってこそのハレなわけで。
ね。




コメント